有名武将アルバム

伊達政宗

生没:1567年~1636年
正室:愛姫
主な居城:仙台城
甲冑:黒五枚胴具足
幼名:梵天丸

 伊達政宗は戦国時代の武将で、出羽国と陸奥国の戦国大名であり、陸奥仙台藩の初代藩主。第16代藩主伊達輝宗と最上義守の娘義姫の嫡男。後世には幼少期に患った疱瘡(天然痘)により右目を失明し隻眼になったことから「独眼竜」などと称される。

 1567年、出羽国米沢城で生まれた政宗は1577年に元服、1579年に田村清顕の娘の愛姫を正室とする。1581年に隣接する戦国大名の相馬氏への侵攻で初陣し、勝利を収める。1584年に18歳という若さで家督を相続し伊達家17代を継承する。その後、近隣大名を下し領土を拡張、全国的にも屈指の領国規模を築いた。

 中央で織田信長の統一事業を継承した豊臣秀吉と鋭く対立していた政宗であったが、小田原包囲網に参陣を催促され、ついに帰陣、服属し本領を安堵された。

 又、秀吉の朝鮮出兵にも従軍した伊達家部隊の戦装束は非常に豪華絢爛であり、ほかの軍勢が通過する中、京都の住民も伊達軍の軍装の見事さに歓声をあげたと言われている。これ以来、派手な装いを好みに着こなす人を指して「伊達者」と呼ぶようになった、と伝えられている。

 秀吉の死後、起こった関ヶ原の合戦の際は東軍側に属し、直江兼続と戦う最上軍に援軍を送り(長谷堂城の戦い)、上杉方を会津に釘付けにするために牽制し東軍の勝利に一役買っている。

 そして慶長6年仙台城と城下町の建設を進め、政宗が藩祖となる仙台藩が誕生、南蛮貿易を計画し支倉常長らをヨーロッパへ派遣(慶長遣欧使節)するなど内外政策の功績も大きい。

 晩年の政宗は3代家光まで仕え、参勤交代に従い、病をおして家光に謁見すると、それに感激した家光は政宗を信頼するようになったと言われる。

 満68歳にて死去。死因はガンであるとされているが、伊達男の名にふさわしく、臨終の際には妻子にも死に顔を見せない心意気であった。

※武将説明に関しては諸説あります。御了承下さい。